from KUBOUIN 2011年2月
謹みて 有縁のみなさまにおかれましては、
慈光照護のもと、日々お過ごしの事と拝察申し上げます。
いつも有難う御座います。
さて、本年1月16日は親鸞聖人749回目のご祥月命日。
来年の1月16日は、750回大遠忌法要御正当です。
さて、なぜ、お勤めするのでしょう? 愚生も一口ではお伝えできませんが、《親鸞聖人さまの御苦労を偲び、そのお徳を讃えるとともに、浄土真宗の教え(私の歩む道)を深く味わうご法縁として勤めます》と、なりますが、・・・ピンときますか?
身内の命日は大切ですが、「親鸞の命日-なんじゃそりゃ」と他人事のように思う、それが現実かもしれません。けれども、かつて「人が聞いたらおかしかろ、親が聞いたらうれしかろ」と言い切ったお念仏者がおられました。その《受け止める心》が脈々と受け継がれて、報恩講【ほうおんこう】は勤められてきました。
親とは、阿弥陀如来さまです。肉親であれば、存在と感情は多様に織りなされるものですが、血縁の親を超えた阿弥陀さまの親の心に遇いますと、感情の対象でしかなかった我が親を、感情をこえて拝んでゆける「私」へとかわります。つまり、根本の価値観が変わるのです。そこにあるのは、真実の利益(りやく)です。
親鸞聖人は、『浄土真宗=本願他力(仏教・浄土門)の教えを、取るも捨てるも、あなた方のご見解次第』とまで申されました。信仰は一切の束縛なく心定めるべきだとの意志を示されたのです。
だからこそ、浄土真宗の、しかもお西(西本願寺)にご縁があっただけのことが、本当に不思議だと思います。《当たり前》が、実は当たり前ではなかったと気付かされます。生きているが、生かされているにひるがえり、おかげさまの味わいです。親鸞様の師 法然上人は、「愚者になりて往生す」と申されました。決して我慢;自我慢心ではありません。深く味わいたいものです。
namo-amidabutsu
当麻九坊院 眞信山蓮向寺 住職 北條不可思(法名:釋難思)